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30デイズ・ナイト プレミアム・エディション [DVD]
これは吸血鬼のお話である。


相変わらずカバーの説明書きもろくろく読まずに借りてきたので、ぱっと見でゾンビものかと思ったのだが、
厳然たる吸血鬼ものなのであった。

吸血鬼の新機軸に挑んだ作品なのであった。


アラスカにある最果ての町が舞台。
ここには年に一度、30日間全く太陽ののぼらない「極夜」が訪れる。


隣の集落まではおよそ130km。
極夜の間は飛行機も飛ばない。犬ぞりだけが頼りの陸の孤島になる。
なので、住人たちのほとんどは極夜になる前に別の土地に移動する。
600人弱の町の人口は150人ほどに減る。


ジョシュ・ハートネットさん(初対面なのでさん付けにした)演じる主人公は保安官。住人の安全を守るお仕事があるので、当然町に残る。
彼の奥さん(離婚調停中)も保安官だが、よくわかんないけどたぶん勤務地が変わったのだろう。任務を終えて町を出ようとするも空港までの道中事故にあい、最後の飛行機に間に合わず、足止めを食ってしまう。

続々と町を出る住人達と入れ替わるようにして、怪しい男が町にやってくる。徒歩で。
髪がぼさぼさで目は血走り、歯がものすごく汚い、見るからに怪しげな男だ。
その男は酒場で揉め事を起こし、主人公にしょっぴかれると

「あいつらがやってくる。お前らみんな死ぬぞ、けけ」
と言う。

その前にも、大量に盗まれた携帯電話が燃やされていたり、犬ぞりを引くためのワンちゃんたちが全滅させられていたりということがあって、いよいよ極夜初日。

町は一斉に停電する。

電話もなぜか不通に。
主人公が発電所に駆けつけると、そこには管理人の惨殺死体があった。

光と移動手段・連絡手段を絶たれ、袋のネズミとなった住人達のもとへ、血に飢えたあいつらが襲い掛かる。
町は一瞬にして、吸血鬼たちの狩場と化したのであった。



およそホラーに不似合いな甘いマスクを持ったジョシュ・ハートネットさん(33)は、この作品のヒューマンな部分を十二分にしょって立っていたが、そのことはここでは語らない。ちょっと語るとすれば、極限状態の中で、別れるつもりだった妻への愛情と絆を再認識して、最後には命を賭して吸血鬼たちと闘う。ざっくりいうとそんなかんじだ。



新機軸である吸血鬼の造形である。

ドラキュラ伯爵に代表される王道のイメージ(私見)では
身分が高そう
インテリそう
基本美男美女
かっこいいキバでもって品よく血を吸う

とかなんとか、世界中の怪物の中でもイケてる要素が多く、腐女子の方々に大人気なのもうなずけるキャラクターだ。

しかしこの作品の吸血鬼たちは、見た目はほとんどゾンビ。
服装はいたって庶民的で、顔のデッサンがもれなく狂っていて、ガタガタのキバで血を吸うというよりもお肉ごと食べちゃうイキオイで首根っこにかぶりつく。

吸血鬼に血を吸われるときには、えも言われぬ恍惚感があるらしい
という話を聞いたことがあるが、こっちの場合はおそらくそんなものはない。
襲い来る吸血鬼たちに阿鼻叫喚の巷と化す様はまさしくゾンビ映画のそれである。

ゾンビとの違いは、彼らには理性があるということだ。
そして、統率するリーダーもいる。

リーダーは
「仲間を増やすな、狩った獲物は首と胴体を切り離せ」などと仲間に指示を出したり

「我々は長い時間をかけてようやく人間たちの記憶から消えることができた。これからもそうでなければならない」
などといい、町に火を放って証拠隠滅を図ろうとしたりする。

そこからは、気が遠くなるほどの長きにわたって、異端としての種を細々と繋いできた彼らの哀愁のようなものを感じることができる。
彼らは、自分たち異端がそれこそゾンビのように無尽蔵に増殖してしまえばその先には何が待ち受けているのかを知っているのだ。


そうした目線で観ていると、なんとなく身につまされるものがないでもない。


口元に滴る血を拭うこともせず、やっと見つけた狩場でひたすら人間たちを捕食している姿は、必死で草を食むうちのうさぎとどこか通じるものがあり、なにを考えてるかよくわからない黒目がちの瞳も、どこかいたいけに見えてくるのであった。








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シェルター

シェルター [DVD]
横文字にめっぽう弱い私には、ホラーとスリラーの明確な違いが判らない。
あとサスペンスも。

教えて!gooとかYahoo!知恵袋とかをのぞいてみたが、まあやっぱりよくわからなかった。

だから「怖い映画」はなんでも「ホラー映画」と呼ぶことにしているし、これからもそうするのである。


この「シェルター」は多重人格云々とあるから、いわゆるサイコホラーとか言われているジャンルの作品なのかな、と思って観始めた。

が、違った。いや、違わないのかもしれないが。

しいて言うなら「イタコホラー」であった。


女主人公は、精神分析医である。
解離性同一性障害、いわゆる多重人格者の存在を認めておらず、そういった症状を持った犯罪者に対しても
「状酌量の余地なし!」
とばっさばっさと切り捨てている。

そうやってばっさと切り捨てられた犯罪者の一人の死刑がいよいよ執行される、というあたりから話が始まる。

もちろん、葛藤はある。
夫が3年前、強盗に殺された過去があったり、それによって神を信じられなくなった幼い娘がいたりもする。

女主人公の父親は同じ精神分析医で、娘のそういったあれやこれやを心配した末、ある患者と引き合わせる。
それが、デヴィッドとかアダムとかウェスとかチャーリーとかいう男であった。

男のオリジナルの人格は、デヴィッドなのかなと見せかけて実はアダムである、と見せかけて実は…といった具合でよくわからないまま話は進む。
とりあえず、のけぞって首がぼきぼきっというと、別人格が現れ、現れた人格たちは行き会った相手に必ず

神を信じるか

と聞くのである。


女主人公が、うさんくせーなこいつと思いながらいろいろ調べていくと、それらの人格たちはいずれも実在した人物で、しかもみんなすでに死んでいて、しかも変死であったという事実が判明する。

さて、男の正体はイタコなのか、それともイタコぶりたい年頃のただの変人なのか。
そしてタイトル「シェルター」の意味とは!?――


――結果から言えば、男はイタコではなくて、イタコぶりっ子でもなくて、シェルターだったのです、という話であった。

といういい加減な説明で終わらせたのにはワケがある。



世の中には、科学で解明できない謎がある
信仰心をなくしたら、えらいことになる

みたいな、お定まりの説教臭さと

女主人公が、家族を守るため、女だてらに奔走する

というお定まりの展開に、なんだかなあと思ってしまったからである。

しかも、ラストシーンまで読めてしまった。
読めなければいいというものでもないんだけど、あまりに読めすぎるのもアレだ。

怪異な現象を取り扱う作品にはほぼ必ず、それに見合った宗教観とか、その土地土地の因習とかが介入してくるものだと思っている。
でもそれらはあくまでバックボーンであってほしい。
あんまり前面に押し出されると、楽しいホラーにはならないような気がする。


そもそも楽しませる気なんかない、と言われればそれまでだが。

でも楽しみたいんだもの。



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アイアンマン [DVD]
自宅にて、夫とともに鑑賞。

私の夫は男気溢るるやさ男なので、わたくしの女性らしい趣味にはどうにも理解を示してくれない。

たとえば

デートでホラー映画を観ようと誘ったら
「ほかのお友達を誘いなさい」
とお父さん風情でにべもなく断られたり

めったにテレビドラマをチェックしない私が「大奥」にはまった時も、ドロドロも最高潮の、ここを見なくてどこを見るというシーンになって隣りで高いびきをかかれたり

そのようなことがもう何度も何度もあり、すっかり懲りた私は二人の共有フォルダから「ホラー」と「ドロドロ」と「納豆」を外すに至ったのだった。

それでも、これが同業者のよしみということなのか、気になる俳優に関しては一致することが多い。
ロバート・ダウニーJr.もその一人である。
つまりダウニー見たさにこの一本を選んだのであった。


ダウニーとの出会いは今年に入ってからで、出演作も「シャーロック・ホームズ」のみしか知らない。
わかりやすいからと勝手にそう呼んでいるが、通称もおそらく「ダウニー」ではないのだろう。
ちなみに、件の柔軟剤も我が家では使ったことがない。

「気になる」けど「好き」なのかどうかはわからない、そんなマジでコイする5秒前な状態の時が、もしかしたら一番楽しいのかもしれないなああ。

横でリラックス丸出しの姿でリモコンを構えている夫だって、15年前の私にはそういう存在だったわけだが、今それを云々しても結局ダブルカウンターでマットに沈むことになるだけなのだからもういいのだ。
今はダウニーのことだけ考えましょう。再生スタート。



武器屋の二代目(モテモテ)が、自分が開発したすっごい威力のミサイルの新作発表会の帰りにテロ集団に拉致監禁され、さっきのミサイルをここで作れと強要されるが、敵の監視をかいくぐり、スクラップですっごい破壊力のパワードスーツを作り上げ、空を飛んで脱出。すぐ墜落。スーツは大破。しかしなんとか逃げおおせる。

テロ組織に自社製の武器が大量に横流しされているのを見て、自分のしてきたことに大きな疑問が生じる二代目。脱出早々記者会見を開く。

チーズバーガーを食べながら「うちの会社ではもう武器作るのやめるよーだ」と宣言するも、父の代からの側近にご乱心扱いされ、表舞台からひっこめられてしまう。自分の主催するパーティーにすら呼んでもらえない始末。

天才発明家でしかも坊ちゃんという、マイペースの二大要素が服を着て歩いているような彼にとって、他人の忠告や嫌がらせなどは屁のつっぱりにもならず、意志はさらに固くなっていく。

作らないだけではだめだ、なくさないと!

自室(ハイテク)に引きこもって、これまた自分の開発したすっごい能力の人工知能に「ぜったい誰にも内緒だかんな!」などと話しかけつつ、パワードスーツの再開発に挑む。
完成したスーツを装着し、責任回収ヒーロー「アイアンマン」となった二代目は、自らの手で武器を撲滅すべく、あっちこっちと飛び回るのであった。

だがしかし――


というところまでで、本編の半分以上の時間を費やしていたのではないだろうか。

二代目がヒーローになるに至るまでには精神的な過程と物理的な過程があって、後者は文系脳の私にはうまく説明できないので端折ってしまったが、そこのところをきっちり描くにはある程度の尺が必要なのだと思う。だが長すぎてもいけない。そのさじ加減が絶妙であった。

いい具合に焦らされたので、いよいよ赤と黄色がテーマカラーの完成版アイアンマンが登場した時には、待ってましたーと拍手喝采を送りたい気持ちになった。


そしてダウニー。

ホームズの時もそうだったが、頭が良すぎて何を考えてるかわかんないのに妙に愛嬌がある人物、というのは彼のはまり役なのだろうか。

40代も半ばなくせにあんなに澄み切った瞳をしている人間なんて、きっとおかしな人生を送ってきたに違いないと思い、ウィキペディアで調べてみるとさもありなんなことがめんめんと書き連ねられていて、あきれ果てつつもなぜか嫌いになれないという、実は放蕩息子キャラが好きな私にはたまらん人物であることが判明。
そしてホラー映画への出演歴があることも判明。


マジでコイしちゃいそうな気持を火照らせながら、夫にダウニーの経歴を話すと

「ボンボンか、要は」

とドライなかんじで返してきた。お前もな、と言いたい気持ちをぐっとこらえたのは言うまでもない。




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すっかり味を占めた感がある、深夜の映画館でのホラー鑑賞。

大好物である悪魔祓いモノとアンソニー・ホプキンスという、最高の取り合わせにあふれるよだれがどうにも止まらない。

さて出かけるかと思った矢先に降り出した大雨も、あたいを止めることはできないのさ。あふれるよだれを隠すにはおあつらえ向きじゃないか。

女番長気取りでバリバリだぜーとバイク(ラッタッタ)にまたがり、一路大泉へ。

まだ公開3日目ということもあってさすがに貸し切りとまではいかなかったが、予想通りのゆったり感。観客は5~6人ほどであった。



「葬儀屋の息子が、行きがかり上エクソシストを目指すことになっちゃった話」

まるでホラーテイストのコメディ漫画のようだが、ひとことで説明するとそういうことなのである。


葬儀屋稼業から逃げ出したいがために家を出て、奨学金で神学校に通うことにした青年。
成績は優秀であったものの、おのれの信仰心の薄さを理由に神父になることを辞退するのだが


君さあ、才能あるんだからエクソシストにおなりなさいよ。バチカンに専門の学校があるから、そこで勉強してくるといいよ。
いやかい?それならそれでもいいんだけどさあ、奨学金全額返済してもらうことになるよ。すごい金額だけど君に払えるかなあ。

と、恩師にゆすり半分で諭され、なんだかなあなんだかなあと阿藤快さながらの心境で、青年はローマへ向かう。


バチカンには現在ものすごい数の悪魔憑きの事例が報告されていて、エクソシストは人手不足の状態にあるらしい。
アメリカにも各教区に一人ずつのエクソシストを配置する計画があるとかないとか、青年がローマ送りになったことにはそんな背景がある。

意外なほど近代的な設備の中、講義が始まる。初日から遅刻する青年。
精神疾患と本物の悪魔憑きの見きわめかた等、何の医学的科学的根拠もない講義に、胡散臭さを隠せない青年。

だからムリなんだってば、だって神も悪魔も信じらんないんだもん、おれ。
すっかりやさぐれている青年にある日

あーきみきみ。なかなかいい根性をしているね。
いまいち私の講義にピンときていないようだから、一度本物の悪魔祓いを見てくるといいよ。
ルーカス神父というね、かなり型破りだけど一流のエクソシストがいるからね、彼を訪ねてみなさい。

と紹介されるのが、アンソニー・ホプキンス扮するルーカス神父なのである。

なんだかなあなんだかなあとルーカスを訪ねる青年。

はてさて―


というのが、冒頭のあらすじ。

軟派な意訳満載でお届けしてしまったが、ほんとは大変硬派で、大変品のある、私としてはこういうのを待っていた!と垂涎で水溜まりができちゃうんじゃないかと思うくらいのステキホラーだったのである。

青年にもルーカス神父にも実在のモデルがいて、エクソシスト学校というのも実在するそうだ。


悪魔祓い見学初日。
そのあまりの地味さととりとめのなさにどっちらけている青年を振り返り

「どうした?頭が回転したり、緑色のゲ○を吐くとでも思ったか」

と言ってニヤリとするルーカス神父。


往年の傑作映画への挑戦状とも取れるこのセリフでもって高らかに宣言される

「わたしたちはこの作品で、ほんとのことをやると誓います!」

という、作り手側の強い決意。

オーマイゴッド!とかジーザス!とか、日常会話に気軽に神やキリストが登場する文化圏に生きているわけではない私ですら、その気概に当てられて思わず武者震いしてしまった。


それにしても、知性のある俳優というのはその造作にかかわらずなんとも魅力的だ。
上記のセリフだって、アンソニー・ホプキンスが発するからこその説得力があったし、向けられた視線は、杉良太郎の流し目も真っ青のセクシーさだった。

アップになれば意外なほど青いその瞳に、引きになれば意外なほど太いその胴体から漂う哀愁に、37歳の乙女心は千々に乱れ、あふれるよだれはやはり止まらないのであった。




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およそ1ヶ月ぶりの観劇であった。


色々なことに基本的に無精で、観劇に関してもそうである。
1ヶ月ぶりというのは特に変わったことでもない。特に自粛していたというわけでもない。

ただ、とにかく電車には乗りたくなかった。

詳しい説明は例によってスペースの都合で割愛いたしますが、とにかく電車に乗りたくない一心でもって、地元でちんまりと過ごしていた1ヶ月だったのである。


そんな中、この公演を薦めてくれたのは、とある知り合いの方であった。
内容に興味をひかれたのはもちろんなのだが、決め手となったのは、その方が長野県の松本市在住であるということかもしれない。

長野→群馬→埼玉→東京といくつもの県境を越えてはるばる観劇に訪れた方のおススメを、ハズレとはいえ都内に住んでいながらあーうー電車がーとか言って無下にしてしまうのはあまりにも人として、また、ハズレとはいえ演劇人としてどうなんだろう、気合いがタランチュラ。ああなんてサエないダジャレ、こりゃいかん芝居を観なくては!!

と、一念発起。



目の前に泥沼があったとすると、ついはまりたくなるのが人情なのではなかろうか。
そしていったんはまるとなかなか抜け出せないというのは、もはや自然の摂理なのである。
それをわかっていながらはまるのである。


2年間、泥沼の中で思考停止している男を、女は苦悩の末、見限る決意をする。
という冒頭からこの芝居は始まる。

これからどうなっていくんだろうという期待とともに、これまでにどんなことがあったんだろうという想像が膨らむ。
切り取られたワンシーンから、過去と未来の両方向へと、観る側の想像力をくすぐってくれている。
出だしから、この作品に対する信頼感を覚えた。
だから安心して物語に身をゆだねることができ、最後までその信頼は裏切られることがなかった。


男はこう、女はこう、と分けて考えることを、娘の頃はするまいするまいと思っていたのだが、娘でなくなった今になってみると男と女にはやはり、抗いがたい性差というものがあるんだわいなあと思わざるを得ない。
ただ日常を生きているだけでもそうなので、恋愛なんぞした日にゃあ、なおさらである。


「幼いころより、恋愛のことばかり考えておりました」
と語る作者は、その男女の性差を完膚なきまでに描き切っていた。
さすが筋金入りだなと思った。


女は一足先に泥沼から這い出したように見えて、実は泥沼を飼い慣らして生きているだけなのであった。
めでたく脱泥沼を果たした男を、愛を理由に再び泥沼に引き込もうと手招きするのだ。
泥沼の中でも呼吸できるのが女。そうではない男は、死を予感しながらも足を踏み入れ、頭まで浸かり、実際死んでしまう。


これはホラーだ。
思えば、題名からしてホラーだ。


男は、憑り殺された。
生きるために、別の男に憑りつく女。
別の男は、そのことをすでに自覚しはじめている。

この先再び訪れるであろう恐怖を予感させるラストは、まさにホラーの手法ではないか。


泥沼恋愛譚と怪奇譚には共通するものがあるのだ。
だからどちらにも女性ファンが多いのだ。
これもまた性差ということなのだろうか。


私自身、こういう趣味は夫とは永遠に平行線なのである。
触れ合うほどに隣り合っていながら、延々と平行線を歩み続けるのが男女なのだ。

それはそれで面白いのではないか、と最近は思っている。



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映画を映画館で、昼間から、しかも定価で観るという、普段ほとんどしないことの三段重ねをした。


かといって、この作品を選んだことにそれほどのこだわりはなかった。

この日は、夜に夫としゃぶしゃぶを食べに行くという一大イベントがすでに決定していたが昼間の予定が未定で、せっかくなら映画でもという話になったのだが、しゃぶしゃぶ合わせで時間を逆算していくとこの映画以外はアニメと、前作を観てない続編ものくらいしかスケジュールが合わなかったのである。

あ、『英国王のスピーチ』もあった。これは私としてはまんざらではなかったのだけど、夫に却下された。
洋画はアクションとかSFとかハデなやつじゃないとイヤ。字幕読むのしんどい。ということだそうでーす。はいはいわかりましたよ。


「お、これ唐沢くん出てるやつだろ?これにしようぜ」

夫は唐沢寿明のことを「唐沢くん」と呼ぶ。
無論知り合いでもなんでもない。

夫がどういった思いでそう呼ぶのかについてはよく知っているが、スペースがもったいないのでここには書きません。
ただでさえ底抜け脱線ブログの様相を呈しているのだから、無駄話は控えます。

私も唐沢くんのことはまんざらでもないので同意。
しゃぶしゃぶ合わせの唐沢合わせで、この日のスケジュールがめでたく決定したというわけであった。


春休みの昼下がり。ロビーは、いつぞやのホラーの夜と同じ空間とはとても思えない、こども天国だった。
駆け巡る子供たちにぶつからぬよう、子供たちがこぼしたポップコーンを踏まぬよう、慎重に歩を進め劇場に入ると

そこはシニア天国であった。

あのこども空間のどこに潜んでいたのだろうか。客席を占める選りすぐりのシニアたち。
あのポップコーンの床を、迷彩柄ならぬポップコーン柄の戦闘服を身にまとい、プリキュアのパンフレットをヘルメットに挟んで匍匐前進でここまでたどり着いたに違いない。


我々はーっ、夫婦50割引きまであと5年のーっ、シニア予備兵でありまーっす。
そのような若輩者が同席する失礼をーっ、お許しくださいっ。
と、(心の中で)敬礼。



「これは従来の戦争ものとは一線を画す、ヒューマンドラマである」

戦争を扱った作品の製作者が口を揃えて言うことのように思う。
そのうえでまた口を揃えて

「若い世代にこそみてほしい」
とも言う。

パンフレットを読む限り(私はほとんどしないが、夫は映画を観ると必ずパンフを買う)この映画もご多分にもれず、そういう意図があったらしい。


正直、このテのコメントには前々から違和感があった。
狙いから大きくずれた客層で埋められた客席でその違和感を抱えたまま観賞した。


戦争時代の実在の人物を演じる、というプレッシャーの罠にはまり、結局抜け出せずじまいの主演俳優はやたらめったら目を潤ませ涙を流す。

女だてらに銃を手にすることもいとわないほどの敵への殺意を募らせることに夢中で、目つきが悪すぎてちっともかわいくないヒロイン。

古き良き日本の女を演じたかったのだろうか。茫洋としたセリフ回しとうつろな目に、かえってウラがあるように見えてしょうがなかった元・子役女優。

ストーリーと主役の人物像自体はとても興味深かっただけに違和感はますます募ったが、それをズバリ払拭してくれたのがそう!

唐沢くんなのであった。


彼の演じた堀内今朝松一等兵という役は、これまた実在の人物がモデルになっているらしいのだが、スキンヘッドに関西弁、胸元からは刺青をチラ見せさせたベタベタなキャラ設定は明らかに創作である。

周囲とのバランスはあまり良くなかったかもしれない。常に浮いていたように感じた。
なぜ浮いていたのか考えた。


戦争という史実、実在した人物、それを前にかしこまり、へりくだり、怖気づき、「こんなに悩みました迷いましたでも『自分なりに』一生懸命やりました」
そんな良く言えば「誠実さ」悪く言えば「言い訳」が溢れ返るスクリーンの中で、唐沢くんの演技ははあまりにもどキッパリしすぎていたのかもしれない。


パンフレット内でのコメント。

「ドキュメンタリーではないのだから、多少のエンタテインメイト性が必要だと感じた」

「大場大尉(主役)との対比は、見た目から作りこんだ」

「日本とアメリカの映画の作り方の違いをハッキリ感じられた。面白かった」

その他もろもろすべてがどキッパリ。うじうじのうの字も感じられない。


鼻持ちならないやつだなあ、と思いつつ、目が離せなくなる。
俳優の、ひとつの理想形だと思った。

あの、常に何かをたくらんでいるような目で
「ハリウッド?そんなの目指してないですよやだなあ」
とか言ってほしい。
ウソつけ!と突っ込んでみたい。



劇場を出た夫の第一声は

「相変わらずやるな唐沢ー」

であった。


呼び捨て。

無論、知り合いでも友達でもなんでもない。



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記念すべきレビューブログ第一回は大好きなホラー映画について書こうと思っていたのだが、なんとなくタイミングが合わず、結局あんまりよく知らないカリスマ俳優の作品レビューになってしまった。

しかし悔やんでも仕方がない。気を取り直していってみよう。


3月3日(ひな祭り)レイトショーにて鑑賞。

なぜレイトショーにしたかというと、チケット代が安いからである。それに尽きる。

安さでいえばレディースデーの方が上なのだが、基本ホラーは自室に閉じこもってひっそり観るのがベストだと思っているので、レディーたちの阿鼻叫喚に包まれながらの観賞は集中を欠く恐れがある。

地元の、昼間はファミリーで賑わっているであろう大型ショッピングセンターの敷地内にある映画館は、夜は面白いほど閑散としていて、ホラーを観るにはうってつけの環境なのだ。

実は1もこの映画館の、同じくレイトショーで観たのだが、観客は私も含めて6~7人しかいなかった。


右手にキャラメル味のポップコーン、左手にホットのカフェオレをもって意気揚々と入場すると、客席にはまだ誰もいない。
ど真ん中の席に陣取り、ポップコーンをほおばりながら上映を待つ。

開始時間が来て、客席が暗くなるも、誰も来ない。

予告が終わり、ポップコーンもあらかた食べ終わる(早食い)。しかし誰も来ない。

『本編終了後、衝撃の事実が!エンドロールが終わるまで席を立たないでください』
とかいう思わせぶりなテロップが出る。しかし誰ひとり来ない。


貸し切り決定。


たった1200円で貸し切りとは、このご時世に気前のいいことおびただしい。
人生初の僥倖に感謝しつつ、存分に堪能させていただきました。


私は子供のころからのホラー好きだが、大人になってから、ホラーに求めるものというか、ホラーの何を楽しみたいと思っているのかがだんだんと変わってきた。

子供時分から感性と感情表現に乏しい人間だったので実際そうすることはほとんどなかったが、昔はもっとホラーを観てわーとかきゃーとかおえーっとか言いたい願望があった。
今はそういうのがあまりない。


怪奇な現象が、人間の、ごくごくノーマルな生活の中にどう侵食していくのか、そんな時人間はどうなってしまうのか、原因は因縁なのか不運なのか自業自得なのか、そういうことが緻密に描かれている作品に出合うと、うーんとうなったり思わず感動してしまったり、いろいろと心が忙しくなって、貧弱な感性が少しは研がれていく気がする。

逆に、そういう設定とかすっ飛ばしたある意味ファンタジーの域に達しているホラーもまたいい。
なんじゃそりゃあーと突っ込みながらゲラゲラ笑って観てしまう。

恐とか驚とかはさておきむしろ、喜怒哀楽を感じたい、ホラーによって。そんな今日この頃なのです。


どうやら賛否両論あるらしいこの『パラノーマル・アクティビティ』シリーズも、そういう観点で見ると、とっても面白い作品だったと思う。

恐怖シーンがちょっぴりシュールなかんじだったのは、これが悪魔の所業だと思えば大いにうなずけるのだ。

だって悪魔(この映画に登場する悪魔は確か、それほど上級ではないという設定だったと思う)って、残忍で、卑猥で下劣で、その分変にお茶目だったりするもんだ、というイメージがある。
そのくせ独自のルールがあって、理由なく、いつでも好きな時に、誰彼構わず恐怖に陥れられるかというとそうではない。
虎視眈々とそのときを待つも、邪魔が入ったりタイミングが合わなかったりでなかなか手出しできないでいる悪魔の、歯噛みや舌打ちの音を想像しながら観るのもまた一興であった。


音と言えば、悪魔が悪さをする前には必ず、ずーぅぅぅんというかぶーぅぅぅんという音がするのだが、その時にシートの背もたれや肘掛けがびりびりと震えるような感覚があって、そういう仕様なのか?ゲームのコントローラーとかパチンコ台のハンドルとかがブルブルするアレみたいなやつか?と勘違いしかけたが、おそらく客席に誰もいなさすぎて音がよく響きすぎたせいなのだと思う。



そんなわけで、ひとり映画鑑賞は自室で観るのとはまた一味違う面白みがあった。
お金持ちがすぐホームシアターを作りたがる気持ちがよくわかった。


観終わってシアターを出ると、係員のお兄さんが手ずからドリンクとポップコーンの空容器を受け取ってくれた。
どうやら私が最後の客だったようだ。
こういうビップっぽい待遇もレイトショーの醍醐味か。



レビューブログと言いながら、今回も本編の内容にはほとんど触れずに終わってしまった。
今後もおそらくそうなるだろうな。


レビューブログにつきものの「ネタバレ」というやつを最後に申し訳程度にしておこう。


本編が始まる前に出たあの「衝撃の事実!」のテロップの正体はなんてことはない

続編がありますよお楽しみにね!

であった。


公開は秋だったか冬だったか、今年だか来年だかもう忘れてしまった。
でもまた観に行くと思う。

もちろんレイトショーでね。





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野獣死すべし デジタル・リマスター版 [DVD]
世の男性陣から今もなお、圧倒的な支持を受けている松田優作。


殊に演劇に携わる男性が、熱っぽく彼のことを語るときの異様に輝くまなざし。

を、飽きるほど見ているうちに本当に飽きてしまった。


まともに作品を観る前から、いかに彼が天才か、努力家か、数々の伝説をもっているか、あーだこーだとまくしたてられ「へーえ」と気のない返事でもしようものなら

『やっぱりオンナコドモには優作の良さはわからないんだ』

と、失望と優越感がないまぜになったような目で見られるわけだから、食わず嫌いになるのも無理はないのではなかろうか。
どうなんだろうか。ただの偏屈ですか。


そんなわけですっかり観るきっかけを失っていたのだが、10年以上の歳月をかけてコツコツと、私がドン引きしない程度の熱量で松田優作の魅力を説き続けていた夫が、これ観ようぜ、と至極ナチュラルなかんじで差し出してきたのがこの『野獣死すべし』だったのであった。


再生ボタンを押す前にひとくさり、夫からの解説あり。

松田優作はこの作品で、それまでのいわゆるアクションスターのイメージからの脱却を図っていたこと。
松田優作自身の持ち込みにより、主人公の人物像は原作とは大いに異なっていること。
役作りのために過酷な減量をし、それでも足りず奥歯まで抜いたこと。
後半にかけてかなり難解な展開になっていくが、あんまり気にしないこと。

「あとは……まあいいや、とりあえず観るか」

うじゃうじゃうっせーなもうみねえよ!
と私が口汚くブチギレるすんでのところで解説を終える、空気の読める夫。



いたるところに、既視感があった。

30年間食わず嫌いをしていたので、そんな順番のおかしい感想を抱いてしまうのだ。

その30年の間に私が散見した数々の物語の中の、偏執的で気味の悪い、それでいて異様に魅力的な造形の人物たちが次々とダブる。
リスペクトとかオマージュとかパロディとか、動機はいろいろで、意識的だったり無意識的だったりもいろいろだろうが、とにかくそれらのオリジナルがここにあった。ような気がした。

そこのところを念のため確認すると

「そうだ」

と、自信満々に答える夫。あ、出た、このテンション。ちょっとうざい。まあいいや。


舞台俳優の端くれとして大いに偏見があるのを承知で言わせていただくと、映画は圧倒的に監督のものだと思っている。
俳優の演技は監督によってキッタハッタされて原形をとどめていることはほぼないのではないか、と思うことすらままある。

でもこれは、なんだかこれは、これ完全に主演俳優が主導権を握ってしまっているのでは…?
という気がして、いつからか演じる側より撮る側に感情移入して観ている自分がいた。
まるで撮る側に挑むような、時には撮る側を試すような、挑発的な演技だった。

それでもフレームに収まりきらなかった部分を補うかのように、収められなかったことを悔やむようにスタッフたちが語ったのが、私も今まで散々聞かされてきた数々の「伝説」だったということなんだろうか。どうなんだろうか。


伝説は語り継がれるから伝説なのだ。


「リップ・ヴァン・ウィンクルの長ゼリフ、あれかなり長いけど、一度も瞬きしないで喋ったらしいぞ」

ホントかウソかわかんないけどな、伝説だから。という夫も、その伝説の片棒を自ら買って出て担いでいる人間の一人で、そんな人間が日本中に数えきれないほどいて、だから松田優作はスターなんだなあ。なるほどなあ。


30年分乗り遅れた私の反応は所詮こんなものだ。
こんなものにしとかないといけないと律している部分もある。

何しろもう50に手が届くおっさんが、今とは違ういろんな臭いを発していたであろう青少年の頃に、友達同士で松田優作のモノマネ(なんじゃこりゃあ以外にも色々と)をして過ごしていたわけで、そういう経験を持たないまま気が付いたら30年経っていた私はそれこそリップ・ヴァン・ウィンクルのように、浦島太郎のようにぽかーんと立っているしかないのであった。






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