世の男性陣から今もなお、圧倒的な支持を受けている松田優作。
殊に演劇に携わる男性が、熱っぽく彼のことを語るときの異様に輝くまなざし。
を、飽きるほど見ているうちに本当に飽きてしまった。
まともに作品を観る前から、いかに彼が天才か、努力家か、数々の伝説をもっているか、あーだこーだとまくしたてられ「へーえ」と気のない返事でもしようものなら
『やっぱりオンナコドモには優作の良さはわからないんだ』
と、失望と優越感がないまぜになったような目で見られるわけだから、食わず嫌いになるのも無理はないのではなかろうか。
どうなんだろうか。ただの偏屈ですか。
そんなわけですっかり観るきっかけを失っていたのだが、10年以上の歳月をかけてコツコツと、私がドン引きしない程度の熱量で松田優作の魅力を説き続けていた夫が、これ観ようぜ、と至極ナチュラルなかんじで差し出してきたのがこの『野獣死すべし』だったのであった。
再生ボタンを押す前にひとくさり、夫からの解説あり。
松田優作はこの作品で、それまでのいわゆるアクションスターのイメージからの脱却を図っていたこと。
松田優作自身の持ち込みにより、主人公の人物像は原作とは大いに異なっていること。
役作りのために過酷な減量をし、それでも足りず奥歯まで抜いたこと。
後半にかけてかなり難解な展開になっていくが、あんまり気にしないこと。
「あとは……まあいいや、とりあえず観るか」
うじゃうじゃうっせーなもうみねえよ!
と私が口汚くブチギレるすんでのところで解説を終える、空気の読める夫。
いたるところに、既視感があった。
30年間食わず嫌いをしていたので、そんな順番のおかしい感想を抱いてしまうのだ。
その30年の間に私が散見した数々の物語の中の、偏執的で気味の悪い、それでいて異様に魅力的な造形の人物たちが次々とダブる。
リスペクトとかオマージュとかパロディとか、動機はいろいろで、意識的だったり無意識的だったりもいろいろだろうが、とにかくそれらのオリジナルがここにあった。ような気がした。
そこのところを念のため確認すると
「そうだ」
と、自信満々に答える夫。あ、出た、このテンション。ちょっとうざい。まあいいや。
舞台俳優の端くれとして大いに偏見があるのを承知で言わせていただくと、映画は圧倒的に監督のものだと思っている。
俳優の演技は監督によってキッタハッタされて原形をとどめていることはほぼないのではないか、と思うことすらままある。
でもこれは、なんだかこれは、これ完全に主演俳優が主導権を握ってしまっているのでは…?
という気がして、いつからか演じる側より撮る側に感情移入して観ている自分がいた。
まるで撮る側に挑むような、時には撮る側を試すような、挑発的な演技だった。
それでもフレームに収まりきらなかった部分を補うかのように、収められなかったことを悔やむようにスタッフたちが語ったのが、私も今まで散々聞かされてきた数々の「伝説」だったということなんだろうか。どうなんだろうか。
伝説は語り継がれるから伝説なのだ。
「リップ・ヴァン・ウィンクルの長ゼリフ、あれかなり長いけど、一度も瞬きしないで喋ったらしいぞ」
ホントかウソかわかんないけどな、伝説だから。という夫も、その伝説の片棒を自ら買って出て担いでいる人間の一人で、そんな人間が日本中に数えきれないほどいて、だから松田優作はスターなんだなあ。なるほどなあ。
30年分乗り遅れた私の反応は所詮こんなものだ。
こんなものにしとかないといけないと律している部分もある。
何しろもう50に手が届くおっさんが、今とは違ういろんな臭いを発していたであろう青少年の頃に、友達同士で松田優作のモノマネ(なんじゃこりゃあ以外にも色々と)をして過ごしていたわけで、そういう経験を持たないまま気が付いたら30年経っていた私はそれこそリップ・ヴァン・ウィンクルのように、浦島太郎のようにぽかーんと立っているしかないのであった。
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一周忌
8 年前