およそ1ヶ月ぶりの観劇であった。
色々なことに基本的に無精で、観劇に関してもそうである。
1ヶ月ぶりというのは特に変わったことでもない。特に自粛していたというわけでもない。
ただ、とにかく電車には乗りたくなかった。
詳しい説明は例によってスペースの都合で割愛いたしますが、とにかく電車に乗りたくない一心でもって、地元でちんまりと過ごしていた1ヶ月だったのである。
そんな中、この公演を薦めてくれたのは、とある知り合いの方であった。
内容に興味をひかれたのはもちろんなのだが、決め手となったのは、その方が長野県の松本市在住であるということかもしれない。
長野→群馬→埼玉→東京といくつもの県境を越えてはるばる観劇に訪れた方のおススメを、ハズレとはいえ都内に住んでいながらあーうー電車がーとか言って無下にしてしまうのはあまりにも人として、また、ハズレとはいえ演劇人としてどうなんだろう、気合いがタランチュラ。ああなんてサエないダジャレ、こりゃいかん芝居を観なくては!!
と、一念発起。
目の前に泥沼があったとすると、ついはまりたくなるのが人情なのではなかろうか。
そしていったんはまるとなかなか抜け出せないというのは、もはや自然の摂理なのである。
それをわかっていながらはまるのである。
2年間、泥沼の中で思考停止している男を、女は苦悩の末、見限る決意をする。
という冒頭からこの芝居は始まる。
これからどうなっていくんだろうという期待とともに、これまでにどんなことがあったんだろうという想像が膨らむ。
切り取られたワンシーンから、過去と未来の両方向へと、観る側の想像力をくすぐってくれている。
出だしから、この作品に対する信頼感を覚えた。
だから安心して物語に身をゆだねることができ、最後までその信頼は裏切られることがなかった。
男はこう、女はこう、と分けて考えることを、娘の頃はするまいするまいと思っていたのだが、娘でなくなった今になってみると男と女にはやはり、抗いがたい性差というものがあるんだわいなあと思わざるを得ない。
ただ日常を生きているだけでもそうなので、恋愛なんぞした日にゃあ、なおさらである。
「幼いころより、恋愛のことばかり考えておりました」
と語る作者は、その男女の性差を完膚なきまでに描き切っていた。
さすが筋金入りだなと思った。
女は一足先に泥沼から這い出したように見えて、実は泥沼を飼い慣らして生きているだけなのであった。
めでたく脱泥沼を果たした男を、愛を理由に再び泥沼に引き込もうと手招きするのだ。
泥沼の中でも呼吸できるのが女。そうではない男は、死を予感しながらも足を踏み入れ、頭まで浸かり、実際死んでしまう。
これはホラーだ。
思えば、題名からしてホラーだ。
男は、憑り殺された。
生きるために、別の男に憑りつく女。
別の男は、そのことをすでに自覚しはじめている。
この先再び訪れるであろう恐怖を予感させるラストは、まさにホラーの手法ではないか。
泥沼恋愛譚と怪奇譚には共通するものがあるのだ。
だからどちらにも女性ファンが多いのだ。
これもまた性差ということなのだろうか。
私自身、こういう趣味は夫とは永遠に平行線なのである。
触れ合うほどに隣り合っていながら、延々と平行線を歩み続けるのが男女なのだ。
それはそれで面白いのではないか、と最近は思っている。
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