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すっかり味を占めた感がある、深夜の映画館でのホラー鑑賞。

大好物である悪魔祓いモノとアンソニー・ホプキンスという、最高の取り合わせにあふれるよだれがどうにも止まらない。

さて出かけるかと思った矢先に降り出した大雨も、あたいを止めることはできないのさ。あふれるよだれを隠すにはおあつらえ向きじゃないか。

女番長気取りでバリバリだぜーとバイク(ラッタッタ)にまたがり、一路大泉へ。

まだ公開3日目ということもあってさすがに貸し切りとまではいかなかったが、予想通りのゆったり感。観客は5~6人ほどであった。



「葬儀屋の息子が、行きがかり上エクソシストを目指すことになっちゃった話」

まるでホラーテイストのコメディ漫画のようだが、ひとことで説明するとそういうことなのである。


葬儀屋稼業から逃げ出したいがために家を出て、奨学金で神学校に通うことにした青年。
成績は優秀であったものの、おのれの信仰心の薄さを理由に神父になることを辞退するのだが


君さあ、才能あるんだからエクソシストにおなりなさいよ。バチカンに専門の学校があるから、そこで勉強してくるといいよ。
いやかい?それならそれでもいいんだけどさあ、奨学金全額返済してもらうことになるよ。すごい金額だけど君に払えるかなあ。

と、恩師にゆすり半分で諭され、なんだかなあなんだかなあと阿藤快さながらの心境で、青年はローマへ向かう。


バチカンには現在ものすごい数の悪魔憑きの事例が報告されていて、エクソシストは人手不足の状態にあるらしい。
アメリカにも各教区に一人ずつのエクソシストを配置する計画があるとかないとか、青年がローマ送りになったことにはそんな背景がある。

意外なほど近代的な設備の中、講義が始まる。初日から遅刻する青年。
精神疾患と本物の悪魔憑きの見きわめかた等、何の医学的科学的根拠もない講義に、胡散臭さを隠せない青年。

だからムリなんだってば、だって神も悪魔も信じらんないんだもん、おれ。
すっかりやさぐれている青年にある日

あーきみきみ。なかなかいい根性をしているね。
いまいち私の講義にピンときていないようだから、一度本物の悪魔祓いを見てくるといいよ。
ルーカス神父というね、かなり型破りだけど一流のエクソシストがいるからね、彼を訪ねてみなさい。

と紹介されるのが、アンソニー・ホプキンス扮するルーカス神父なのである。

なんだかなあなんだかなあとルーカスを訪ねる青年。

はてさて―


というのが、冒頭のあらすじ。

軟派な意訳満載でお届けしてしまったが、ほんとは大変硬派で、大変品のある、私としてはこういうのを待っていた!と垂涎で水溜まりができちゃうんじゃないかと思うくらいのステキホラーだったのである。

青年にもルーカス神父にも実在のモデルがいて、エクソシスト学校というのも実在するそうだ。


悪魔祓い見学初日。
そのあまりの地味さととりとめのなさにどっちらけている青年を振り返り

「どうした?頭が回転したり、緑色のゲ○を吐くとでも思ったか」

と言ってニヤリとするルーカス神父。


往年の傑作映画への挑戦状とも取れるこのセリフでもって高らかに宣言される

「わたしたちはこの作品で、ほんとのことをやると誓います!」

という、作り手側の強い決意。

オーマイゴッド!とかジーザス!とか、日常会話に気軽に神やキリストが登場する文化圏に生きているわけではない私ですら、その気概に当てられて思わず武者震いしてしまった。


それにしても、知性のある俳優というのはその造作にかかわらずなんとも魅力的だ。
上記のセリフだって、アンソニー・ホプキンスが発するからこその説得力があったし、向けられた視線は、杉良太郎の流し目も真っ青のセクシーさだった。

アップになれば意外なほど青いその瞳に、引きになれば意外なほど太いその胴体から漂う哀愁に、37歳の乙女心は千々に乱れ、あふれるよだれはやはり止まらないのであった。




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およそ1ヶ月ぶりの観劇であった。


色々なことに基本的に無精で、観劇に関してもそうである。
1ヶ月ぶりというのは特に変わったことでもない。特に自粛していたというわけでもない。

ただ、とにかく電車には乗りたくなかった。

詳しい説明は例によってスペースの都合で割愛いたしますが、とにかく電車に乗りたくない一心でもって、地元でちんまりと過ごしていた1ヶ月だったのである。


そんな中、この公演を薦めてくれたのは、とある知り合いの方であった。
内容に興味をひかれたのはもちろんなのだが、決め手となったのは、その方が長野県の松本市在住であるということかもしれない。

長野→群馬→埼玉→東京といくつもの県境を越えてはるばる観劇に訪れた方のおススメを、ハズレとはいえ都内に住んでいながらあーうー電車がーとか言って無下にしてしまうのはあまりにも人として、また、ハズレとはいえ演劇人としてどうなんだろう、気合いがタランチュラ。ああなんてサエないダジャレ、こりゃいかん芝居を観なくては!!

と、一念発起。



目の前に泥沼があったとすると、ついはまりたくなるのが人情なのではなかろうか。
そしていったんはまるとなかなか抜け出せないというのは、もはや自然の摂理なのである。
それをわかっていながらはまるのである。


2年間、泥沼の中で思考停止している男を、女は苦悩の末、見限る決意をする。
という冒頭からこの芝居は始まる。

これからどうなっていくんだろうという期待とともに、これまでにどんなことがあったんだろうという想像が膨らむ。
切り取られたワンシーンから、過去と未来の両方向へと、観る側の想像力をくすぐってくれている。
出だしから、この作品に対する信頼感を覚えた。
だから安心して物語に身をゆだねることができ、最後までその信頼は裏切られることがなかった。


男はこう、女はこう、と分けて考えることを、娘の頃はするまいするまいと思っていたのだが、娘でなくなった今になってみると男と女にはやはり、抗いがたい性差というものがあるんだわいなあと思わざるを得ない。
ただ日常を生きているだけでもそうなので、恋愛なんぞした日にゃあ、なおさらである。


「幼いころより、恋愛のことばかり考えておりました」
と語る作者は、その男女の性差を完膚なきまでに描き切っていた。
さすが筋金入りだなと思った。


女は一足先に泥沼から這い出したように見えて、実は泥沼を飼い慣らして生きているだけなのであった。
めでたく脱泥沼を果たした男を、愛を理由に再び泥沼に引き込もうと手招きするのだ。
泥沼の中でも呼吸できるのが女。そうではない男は、死を予感しながらも足を踏み入れ、頭まで浸かり、実際死んでしまう。


これはホラーだ。
思えば、題名からしてホラーだ。


男は、憑り殺された。
生きるために、別の男に憑りつく女。
別の男は、そのことをすでに自覚しはじめている。

この先再び訪れるであろう恐怖を予感させるラストは、まさにホラーの手法ではないか。


泥沼恋愛譚と怪奇譚には共通するものがあるのだ。
だからどちらにも女性ファンが多いのだ。
これもまた性差ということなのだろうか。


私自身、こういう趣味は夫とは永遠に平行線なのである。
触れ合うほどに隣り合っていながら、延々と平行線を歩み続けるのが男女なのだ。

それはそれで面白いのではないか、と最近は思っている。



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映画を映画館で、昼間から、しかも定価で観るという、普段ほとんどしないことの三段重ねをした。


かといって、この作品を選んだことにそれほどのこだわりはなかった。

この日は、夜に夫としゃぶしゃぶを食べに行くという一大イベントがすでに決定していたが昼間の予定が未定で、せっかくなら映画でもという話になったのだが、しゃぶしゃぶ合わせで時間を逆算していくとこの映画以外はアニメと、前作を観てない続編ものくらいしかスケジュールが合わなかったのである。

あ、『英国王のスピーチ』もあった。これは私としてはまんざらではなかったのだけど、夫に却下された。
洋画はアクションとかSFとかハデなやつじゃないとイヤ。字幕読むのしんどい。ということだそうでーす。はいはいわかりましたよ。


「お、これ唐沢くん出てるやつだろ?これにしようぜ」

夫は唐沢寿明のことを「唐沢くん」と呼ぶ。
無論知り合いでもなんでもない。

夫がどういった思いでそう呼ぶのかについてはよく知っているが、スペースがもったいないのでここには書きません。
ただでさえ底抜け脱線ブログの様相を呈しているのだから、無駄話は控えます。

私も唐沢くんのことはまんざらでもないので同意。
しゃぶしゃぶ合わせの唐沢合わせで、この日のスケジュールがめでたく決定したというわけであった。


春休みの昼下がり。ロビーは、いつぞやのホラーの夜と同じ空間とはとても思えない、こども天国だった。
駆け巡る子供たちにぶつからぬよう、子供たちがこぼしたポップコーンを踏まぬよう、慎重に歩を進め劇場に入ると

そこはシニア天国であった。

あのこども空間のどこに潜んでいたのだろうか。客席を占める選りすぐりのシニアたち。
あのポップコーンの床を、迷彩柄ならぬポップコーン柄の戦闘服を身にまとい、プリキュアのパンフレットをヘルメットに挟んで匍匐前進でここまでたどり着いたに違いない。


我々はーっ、夫婦50割引きまであと5年のーっ、シニア予備兵でありまーっす。
そのような若輩者が同席する失礼をーっ、お許しくださいっ。
と、(心の中で)敬礼。



「これは従来の戦争ものとは一線を画す、ヒューマンドラマである」

戦争を扱った作品の製作者が口を揃えて言うことのように思う。
そのうえでまた口を揃えて

「若い世代にこそみてほしい」
とも言う。

パンフレットを読む限り(私はほとんどしないが、夫は映画を観ると必ずパンフを買う)この映画もご多分にもれず、そういう意図があったらしい。


正直、このテのコメントには前々から違和感があった。
狙いから大きくずれた客層で埋められた客席でその違和感を抱えたまま観賞した。


戦争時代の実在の人物を演じる、というプレッシャーの罠にはまり、結局抜け出せずじまいの主演俳優はやたらめったら目を潤ませ涙を流す。

女だてらに銃を手にすることもいとわないほどの敵への殺意を募らせることに夢中で、目つきが悪すぎてちっともかわいくないヒロイン。

古き良き日本の女を演じたかったのだろうか。茫洋としたセリフ回しとうつろな目に、かえってウラがあるように見えてしょうがなかった元・子役女優。

ストーリーと主役の人物像自体はとても興味深かっただけに違和感はますます募ったが、それをズバリ払拭してくれたのがそう!

唐沢くんなのであった。


彼の演じた堀内今朝松一等兵という役は、これまた実在の人物がモデルになっているらしいのだが、スキンヘッドに関西弁、胸元からは刺青をチラ見せさせたベタベタなキャラ設定は明らかに創作である。

周囲とのバランスはあまり良くなかったかもしれない。常に浮いていたように感じた。
なぜ浮いていたのか考えた。


戦争という史実、実在した人物、それを前にかしこまり、へりくだり、怖気づき、「こんなに悩みました迷いましたでも『自分なりに』一生懸命やりました」
そんな良く言えば「誠実さ」悪く言えば「言い訳」が溢れ返るスクリーンの中で、唐沢くんの演技ははあまりにもどキッパリしすぎていたのかもしれない。


パンフレット内でのコメント。

「ドキュメンタリーではないのだから、多少のエンタテインメイト性が必要だと感じた」

「大場大尉(主役)との対比は、見た目から作りこんだ」

「日本とアメリカの映画の作り方の違いをハッキリ感じられた。面白かった」

その他もろもろすべてがどキッパリ。うじうじのうの字も感じられない。


鼻持ちならないやつだなあ、と思いつつ、目が離せなくなる。
俳優の、ひとつの理想形だと思った。

あの、常に何かをたくらんでいるような目で
「ハリウッド?そんなの目指してないですよやだなあ」
とか言ってほしい。
ウソつけ!と突っ込んでみたい。



劇場を出た夫の第一声は

「相変わらずやるな唐沢ー」

であった。


呼び捨て。

無論、知り合いでも友達でもなんでもない。



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